「量より質」は正しいのか?
「量より質」は正しいのか?
「量より質」と聞くと、スマートでカッコいい印象を受けます。
でも、この言葉は正しいのでしょうか?
なんとなく「量」がないがしろにされている気がします。
例えば、ご飯
「量より質」という言葉は、いろんな場面で使われます。
例えば、ご飯。
バイキングなどの食べ放題は、たくさん食べることができる代わりに味はいまいち。そんなことがよくあります。
こんなときに、つい出てくる言葉が
「やっぱ、量より質だよね」
果たして、これは真実なんでしょうか?
逆のパターン、メチャメチャおいしいけど、量はちょっとだけ。
そんな場合はどうでしょうか?
このときも
「やっぱ、量より質だよね」
という言葉が出てくるんでしょうか?
おそらく
「おいしいけど、もうちょっと量が欲しいよね」
そんな言葉が出てきそうです。
結局のところ、「質」も「量」も重要
結局のところ、「質」も「量」も重要ということ。
「量より質」という言葉はスマートでカッコいいけど、カッコいいだけで現実が伴わない。
そんな気がします。
そもそも、「質」って何なの?
そもそも、「質」って何なんでしょうか?
「量」であれば、「300g」など、具体的な数字で表すことができます。
一方、「質」は、人の主観で決まるもの。「同じ料理」を、おいしいと感じる人もいれば、まずいと感じる人もいる。感じ方は人それぞれ。
「質」という言葉自体、扱いが難しい気がします。
例えば、テスト勉強の「質」
例えば、テスト勉強の「質」。
最も効率の良い勉強法は、テストの「問題」と「答え」を事前に入手して、答えを丸暗記してしまうこと。(もし、タイムマシンなどがあればできます。)
勉強にかける時間はわずか。にもかかわらず、高得点を取ることができる。メチャメチャ効率的です。
ラクに点数を取りたい。
ラクに合格したい。
ラクに資格を取得したい。
そんな人達にとっては最高に「質」の良い勉強法と言えます。
ただ、果たしてこれを「質」の良い勉強法と言っていいのでしょうか?
テストで出題された内容以外は全く頭に入っていない。知識がスカスカの状態。
その試験は突破できても、その先の未来で困ることになります。
このように考えると、「質」の良い勉強法ではなく、「悪質な」勉強法とも捉えることができます。
「質」の基準は自分、もしくは相手
このように「質」は、あいまいなもの。人によって異なります。
自分だけで完結するものなら、「質」の基準は自分になるし、相手も巻き込むようなものであれば、「質」の基準は自分と相手になります。
「量より質」という言葉は意外とめんどくさい。
にもかかわらず、容易に使われている気がします。
「質」が重要なのは間違いない。でも、やっぱり・・・
「質」が重要なのは間違いありません。
例えば、志望校合格を目指す場合。
「質」の悪い勉強法では、何時間勉強しても合格点に辿り着けないかもしれません。そういった意味では、「質」は重要。
しかし、「質」の良い勉強法でも、「量」が足りなければ同じく合格点に辿り着くことはできません。
やっぱり「量」も大事。
「量より質」ではなく「量も質も」が正しい気がします。
二兎追うものは一兎もを得ずなんて言いますが、「量」と「質」に関しては、妥協せずに二兎を追った方がいい。個人的にはそう思います。
最近、「量」がないがしろにされている気がする
最近、「量」がないがしろにされている気がします。
例えば、部活時間の短縮、労働時間の短縮などです。
健康面などを考慮すれば短縮すべき。しかし、そのせいで、自己成長の機会を奪われている人がいるように思います。
世の中には、
「早く部活終わってくれないかな」
「早く仕事終わってくれないかな」
と考える人もいれば、
「もっと部活をやりたい!」
「もっと仕事をやりたい!」
と考える人もいます。
最近の世の中は、なんとなく「前者」基準。そして「後者」が「前者」に合わせている(半強制的に)。
素晴らしいことだと思う一方、なんだか寂しい気がします。
なんだかんだ言っても「量」が重要だと思う
なんだかんだ言っても「量」が重要ではないか。
そんな思いでこの記事を書いています。
なぜなら、私自身が「量」の重要性を痛感したから。
この記事で、記事数が100個に
読んで頂いているこの記事。
私がホームページを立ち上げてから、この記事で、記事数がちょうど「100個」になりました。
記事を「100個」書って意外と大変なんです。
文字数はおそらく20万字以上。原稿用紙だと500枚以上です。
でも、これだけ「量」をこなすと色々な気付きがあります。
少しずつ文章が上手くなっていく
例えば、昔に比べると少しずつ文章が上手くなってきました。
お気付きかもしれませんが、私は文章を書くことが得意ではありません。
小さい頃から「文章を読む」、「文章を書く」のは苦手。そして、社会人になってからも理系職に進んだことあり、文章を書く機会がそれほどありませんでした。
しっかりと文章を書き始めたのは、ホームページを立ち上げた去年(2018年)から。
ただ、今になって立ち上げ当初の記事を読み返すと目を覆いたくなるものばかり。
そこから比較すると、文章力がかなり向上しました。
1つ記事を書くと、なんらかの気付きが必ずあります。そして、1歩前進できる。現時点でようやく100歩前進できました。
まだまだ未熟ですが、1年前と比較すると明らかに違う。成長感がある。
そして、これからも文章を書き続ければ、ちょっとずつ成長していく。
おそらく、1年後にこの記事を読み返せば、目を覆いたくなると思います。
ですが、それは成長の証。
「量」ってやっぱ重要だよな・・・。と痛感した次第です。
読者が増える
ありがたいことに、100記事も書くと読者が増えてきます。
10記事くらいのときには、誰にも読んでもらえませんでした。でも、20記事、30記事、と記事数が増えるにつれてどんどん読者が増えていく。
このサイトへの訪問者も10,000人を突破しました(2019年9月時点)。
おそらく、文章が上手い人(「質」の良い記事を書ける人)であれば、10記事程度でも10,000人突破は余裕だと思います。
ですが、そんなことは私にはムリ。文才がありません。
でも、「量」が増えれば、多少「質」が悪くても読者が増えてくれる。つまり、「量」で「質」をカバーすることができる。
「初心者」や「才能に自信のない人」は、ある程度の「量」をこなすことが重要。そんな気がします。
「量」をこなすことで「質」に気付けるようになる
「質」の高い文章を書くためには、「文章の上手い人の記事」などから「質」を学ぶ必要があります。
ですが、最初の頃は、それらを読んでも「質」に気付くことができませんでした。
相手と自分の実力差が大きすぎると、相手の意図(貴重な情報)に気付くことができない。160キロのボールを投げられても速すぎて見えない。そんな感じです。
しかし、記事をたくさん書くことで、自分の実力がちょっとずつ上がっていく。見逃していた貴重な情報をキャッチできるようなる。
「質」に気付けるようになるには、ある程度の「量」が必要。「量」の重要性を再認識しました。
細くて美しい木、太くて不細工な木
「質」を求めれば、たしかにムダはないし、効率的。でも、振り返ったときに残るのは「きれいな1本道の足跡」。
逆に、「量」を求めれば、振り返ったときに「汚い足跡」が見える。でも、いろんな場所に足跡がある。
「木」で例えると、
「量より質」は細くて美しい木。
「質より量」は太くて不細工な木。
そんな感じでしょうか。
おそらく、現代の日本人の多くは「細くて美しい木」を選ぶような気がします。風流ですし。
でも、台風が来たらどうなるか?
「細くて美しい木」は、きっと折れてしまいます。
「太くて不細工な木」は、きっとビクともしません。
「量」は自分の底力をつけてくれる。困難に打ち勝つ力を培ってくれる。そんな気がします。
もし、「壁」などにぶち当たったら「量」を意識することをおススメします。
もがき続けることで、きっと乗り越えることができます。
ただ、やっぱり「質」も重要。
最終的には「太くて美しい木」を目指すことをおススメします。