「いじめはダメ」「差別はダメ」こんな教育で良いのだろうか?

「いじめはダメ」「差別はダメ」こんな教育で良いのだろうか?

 
「いじめはダメ」
「差別はダメ」

 
こんな教育で本当にいいのだろうか?

少なくとも私は物凄く違和感を感じる。

 
「いじめ」も「差別」もしない人なんて見たことがない。

あきらかに矛盾している。

 
矛盾していることを子供たちに教え込んでも、子供たちが納得するわけないし、頭がこんがらがるだけ。

こんな教育をしている限り、「いじめ問題」や「差別問題」は一生なくならない気がする。
 

例えば、ワイドショーを見る人は・・・

例えば、ワイドショーを見る人は、少なからず「いじめ」に加担している。

 
昨今のワイドショーは、不祥事を起こした人を徹底的に叩く風潮がある。

つまり、不祥事を起こした人を徹底的に「いじめ」ている。

 
視聴者が見れば見るほど、視聴率が取れるので内容はエスカレートしていく。

ワイドショーを見る人のせいで「いじめ」がどんどん大きくなる。

 
 
「不祥事を起こしたんだから仕方ないだろう」

そう思う人もいるかもしれない。

 
でも、子供が不祥事を起こした場合はどうだろうか?

その子供を徹底的に「いじめ」ていいんだろうか?

 
おそらく、「いじめはダメだ」という人が出てくる。

 
大人のいじめは良くて、子供のいじめはダメ。

意味がわからない。

 
大人がそんなことやってれば、子供も真似するに決まっている。

セクハラも・・・

セクハラなんてとんでもない差別。

人によってセクハラになるかどうかが決まる。

 
「物凄いイケメン」だったらセーフ。「加齢臭がするハゲたオッサン」はアウト。

ひどい差別。

 
でも、男性も女性のことばかり言えない。

「物凄い美人」と「そうでない人」では、あきらかに対応が変わる。

これもまた差別。

「いじめ」も「差別」もしない人なんていない

このように「いじめ」も「差別」もしない人なんていない。

「神さま」ですら、するかもしれない。

神さまは「頑張っている人」の後押しをする、なんていうことがある。でも、これは「頑張っている人」と「頑張っていない人」を差別している。

根底にあるのは「好き」や「嫌い」の感情

おそらく、「いじめ」や「差別」の根底にあるのは、「好き」や「嫌い」の感情だと思われる。「不安」の感情もあるかもしれない。

 
嫌いな人を「いじめ」たり、「差別」したりする。

 
「いじめはダメ」「差別はダメ」ということは、人を好きになったり、嫌いにはなってはいけないということ。

「人類みな平等」というのは素晴らしい言葉だが、実現するためには、機械のように無感情で生きるしかない。

 
そんなことできるはずがないし、仮にできたとしてもつまらない世界になってしまう。そんなことは、きっと誰も望まない。

 
それなのに

「いじめはダメ」
「差別はダメ」

という教育。

 
こんな矛盾だらけの教育で、いじめ問題や差別問題がなくなるはずがない。

「醜い心」の存在を受け入れるべし

おそらく、人間の心の中には

「人をいじめたい」
「人を差別したい」

といった「醜い感情」が存在している。

 
でも、多くの人は自分の「負」の部分と向き合うのを拒んでしまう。

 
まずは、この「醜い心」の存在を受け入れることが重要だと思う。

 
「いじめはダメ」
「差別はダメ」

という教育よりも

いじめたい気持ちをどう制御するか?
差別したい気持ちをどう制御するか?

 
このような教育の方が、きっと子供たちの心に響く。なぜなら、嘘偽りがないから。

「いじめ」や「差別」に対する考え方がきっと変わる

このような教育をしていけば、「いじめ」や「差別」に対する考え方がきっと変わると思う。

 
先日問題になった「先生が先生をいじめる」という事件。

ニュースでは前代未聞なんて言っているが、先生間のいじめなんて、昔からあるに決まっている。なぜなら、先生も人間だから。

 
恐ろしいのは「いじめた先生を絶対許すまじ」という風潮。

 
「先生がいじめをするなんて許されない」と言って、その先生を徹底的にいじめている。

本来は、その学校に所属する生徒や保護者にしか関係ないことなのに、無関係な人達が「絶対許さない!」と声高々に叫んでいる。

校長先生が記者会見をしていたが、意味がわからない。謝るべきは生徒や保護者達であって、テレビの向こうにいる誰かではない。最近の「記者会見で謝る」という風潮が気持ち悪くて仕方ない。

 
話が少し逸れてしまったが、そもそも「いじめはダメだ」という教育がこのような風潮を後押ししているような気がする。

 
「いじめ」というキーワードに対して、反射的に批判してしまう。

その結果、満足するのはテレビ番組制作者と視聴者。非難された人は、人生が終わる。

不毛すぎる。

 
もしも、

いじめたい気持ちをどう制御するか?

このような教育が浸透していれば、少し変わるような気がする。

 
「あの人はいじめたい気持ちをコントロールできなかったんだね。何があったんだろう?」

「コントロールするにはどうすればよかったんだろう?」

 
このような「いじめる側の心理」に着目した議論がきっと起こる。

いじめを未然に防止するためには、「イジメる側の心理」を理解する必要がある。

今は、この当たり前のことができていないような気がする。

 

「いじめは許さん!」
「懲戒解雇だ!」
「記者会見をしろ!」

こんな意見ばかり。いじめ問題が解決できるとは到底思えない。

「いじめ・差別」の教育をもっと改善すべき

「いじめはダメ」
「差別はダメ」

という教育よりも

いじめたい気持ちをどう制御するか?
差別したい気持ちをどう制御するか?

という教育の方が、個人的には良いと考える。

 
もちろん、これで「いじめ問題」や「差別問題」が根本的に解決できるとは思っていない。

 
でも、少なくとも現代の教育を改善していくべきだと思う。テレビのワイドショーを見ているとうんざりしてしまう。なんとなく世の中に息苦しさを感じてしまう。(まあ、ワイドショーを見てしまう私も良くないのですが・・・)