「自由に生きる」ために実践すべき2つのこと
「自由に生きる」ために実践すべき2つのこと
「自由に生きる」にはどうしたらいいのだろうか?
「自由」はあいまいな言葉。
自分の求める「自由」を明確にしない限り、存在しないものを追い続けることになる。
自由を手に入れたければ、
- 「自分の求める自由」を明確にすること
- その自由に向かって自分を磨き続けること
この2つを実践することをおススメする。
自分を束縛する存在は?
「自由」を求める背景には、必ず「自分を束縛する存在」がある。
会社員であれば、上司や会社。
主婦であれば、旦那、子供、親、ママ友、近隣住民。
束縛する存在は、人かもしれないし、身の周りの環境かもしれない。
束縛する存在がなくなれば自由なのか?
では、束縛する存在がなくなれば自由なのだろうか?
例えば、会社員の場合。
上司や会社に束縛されて、うんざりしているのであれば会社なんて辞めてしまえばいい。
でも、その先に「自由」はあるのだろうか?
会社を辞めれば、自由になれるような気がする。しかし、それと引き換えに給料を失うことになる。
今の日本では、お金がなければ生活できない。ご飯を食べれず、衣類も買えず、住む場所もなくなる。
おそらく、これは「自由」ではない。
主婦も似たようなもの。
人間関係がイヤであれば、今の生活を切り捨てて、無人島にでも行けばいい。誰も干渉してこない。
しかし、1人ぼっちで自給自足の生活を強いられることになる。
おそらく、これも「自由」ではない。
「束縛するもの」から逃げても自由にはなれない
「束縛するもの」から逃げても自由になることはできない。
逃げた先で束縛されるだけ。
会社がイヤで転職しても、次の会社で束縛される。今の家族がイヤで離婚・再婚しても、次の家族で束縛される。
つまり、「自由」がないのは「束縛するもの」のせいだけではない。
「鎖につながれた犬」は自由なのか?
「鎖につながれた犬」は自由なのだろうか?
鎖が届く範囲しか行動できない。
しかし、鎖が届く範囲内であれば「自由」に動き回ることができる。
自由があるともいえるし、ないともいえる。
でも、どちらかといえば、自由がないように見えてしまう。鎖の存在が不自由さを感じさせる。
では、「室内飼いの犬」はどうだろうか?
「鎖」はついていない。
しかし、家の中を動き回れるだけで、家の外までは出られない。「鎖につながれた犬」と比べれば自由に見えるが、実際はそれほど自由ではない。
見えない鎖でつながれているようなもの。
「室内飼いの犬」も、自由があるともいえるし、ないともいえる。
「室内飼いの犬」も「鎖につながれた犬」さほど変わらない。
鎖を外せば自由なのか?
では、鎖を外せば自由なのだろうか?
どこにでも自由に行ける。
残念ながら、おそらく、今の日本では自由にはならない。
犬が自由に外を歩き回っていたら、すぐに通報されてしまう。最悪の場合、保健所で殺処分に。
通報される前に、交通事故などで命を落とす危険性もある。
このように考えると、鎖につながれている方が安全で、自由があるともいえる。
人間も犬もそれほど変わらない
人間も犬もそれほど変わらないのではないだろうか?
人間も「何かの鎖」につながれている。
例えば、日本に住んでいるのであれば、「日本という国」の鎖につながれている。
法律を破ろうものなら、すぐに警察にしょっぴかれる。一方で、法律は自分を守ってくれるものでもある。
法の範囲外に出れば自由がなくなり、法の範囲内にいれば自由を与えられる。
鎖をつけられた犬とそれほど変わらない。
完全な自由など存在しない
生きている限り「何かの鎖」につながれることになる。
つまり、完全な自由など存在しない。
「完全な自由」を追い求めると、存在しないものを追い求めることになる。永遠にもがき苦しむことになる。
自由は鎖の範囲内にしかない。
言い方を変えれば、鎖の範囲内で「自由」を追い求めるしかない。
自分を束縛する鎖は変更できる
ただ、自分を束縛する鎖は変更しようと思えば変更できる。
例えば、日本の鎖がイヤであれば、アメリカに移住して、アメリカの鎖につながればいい。今の会社の鎖がイヤであれば、他の会社に転職して、新しい会社の鎖につながればいい。
しかし、新しい鎖の範囲内に自由があるかはわからない。
つまり、「自分の求める自由」を明確にしない限り、いくら鎖を変更しても、自由が手に入るかどうかはわからない。下手をすれば、自由から遠ざかってしまう可能性さえある。
「自分の求める自由とは何なのか?」を明確にすべし
「自分の求める自由とは何なのか?」を明確にする必要がある。
まず最初にやるべきは
「自分がどうなりたいか」
を決めること。
例えば、「1年中豪遊したい」。
これも一種の自由といえる。
少々ハードルが高いかもしれないが不可能ではない。自分が物凄いお金持ちになる、もしくは、物凄いお金持ちと結婚する、など方法はある。
それに、お金持ちになる方法なんていくらでもある。
- 発明で成功する
- 起業で成功する
- 投資で成功する
など。
お金持ちになる方法はいくらでも存在する。にもかかわらず、これらにチャレンジする人は驚くほど少ない。
おそらく、失敗するリスクがあるからだと思われる。
しかし、チャレンジもせずに成功するはずがない。当然、自分の望む「自由」も手に入らない。
「自由」が手に入らないのは自業自得ともいえる。
このように「自分がどうなりたいか?」を突き詰めていくと、自分のやるべきことや進むべき道が見えてくる。
自由の概念は人によって異なる
自由の概念は人によって異なる。
先述の「1年中豪遊すること」を自由と感じる人もいれば、そうは感じない人もいる。
自由の概念は「自分」で決めることができる。それこそ、自由に。
一例として、「筆者の考える自由」を紹介させて頂く。
筆者は「新しい経験ができること」を自由と考えている。
仕事でも、プライベートでも何でもいい。どこか新しい場所に行くのもいいし、部屋でじっと新しい本を読むのもいい。
新しいことを経験できれば、それを自由と感じる。
生きていれば何かしら新しいことに出会うので、「生きていること自体が自由」と捉えることもできる。
このように考えると、別にお金持ちにならなくても自由を手に入れることができる。(もちろん、お金持ちになれるものならなりたいとは思うが・・・)
実際、歩けなくても自由を感じたことがある
実際、歩けなくても自由を感じたことがある。
高校時代に膝の手術で1ヶ月入院したことがある。歩けないので一日の大半はベッドの上。
幸か不幸か、退院する時期に定期テストがあったので、入院中はテスト勉強をすることにした。
そのときに気付いたのは、体は不自由だが、頭は自由であること。
ベッドの上でも勉強ならいくらでもできる。勉強すればするほど、新しい知識が入ってくる。体は動かせないが、頭の中で疑似的に新しいことを経験できる。
そのため、入院生活は全く苦ではなかった。(ひたすら勉強したおかげで、そのときのテストは学年1位だった。それが最初で最後だったが・・・)
このように、不自由と思えるところにも自由は存在する。
「自由」の定義なんて自分で決めればいい
「筆者の考える自由」に共感してもらえないかもしれない。
でも、それはある意味当たり前。「自由」は人によって異なる。
「自由」の定義なんて自分で自由に決めればいい。
他人にどう思われようが関係ない。むしろ、他人を気にしていたら、自分の求める自由に辿り着くことなどできない。
現状のまま「自由」に辿り着くことができるか?
「自分の求める自由」が決まってしまえば、あとはそれを求めて突き進めばいい。
しかし、先述のように生きている限り「何かしらの鎖」につながれている。
まず考えるべきは、現状の鎖につながれたまま「自由」に辿り着くことができるかどうか。
辿り着けるのであれば、さほど苦労しない。自由に向かって突き進めばいいだけ。
厄介なのは、辿り着けないとき。この場合は「自分を束縛する鎖」と戦う必要がある。
鎖と闘うためにはかなりの労力が必要。
例えば、会社を辞めて転職するためにはかなりのエネルギーが要る。
鎖は1本だけではない
自分を束縛する鎖は1本だけではない。
日本に住んでいれば、日本の鎖が1本。
会社に勤めていれば、会社の鎖が1本。さらに、会社で関わる人の数だけ鎖が存在する。(上司、同僚、部下、関連会社の人、など)
家族がいれば、家族の人数分だけ鎖が存在する。
つまり、日本に住んでいて、会社に勤めていて、家族がいる人は、ものすごい数の鎖でつながれることになる。まさにがんじがらめ。
だからといって、全ての鎖に手を出すのはナンセンス。
とてもじゃないが、体力も気力も持たない。
「束縛力の強い鎖」から順番に対処していけばいい。
鎖を変更するには
鎖を変更する方法は、大きく分けて2つ。
1つ目は、鎖を切って、別の鎖をつけること。
2つ目は、鎖を長くすること。
1つ目の「鎖を切る」のは、あまりおススメできない。鎖を切るとは、移住や転職、離婚など、束縛するものと縁を切ってしまうこと。
鎖を切ったところで、結局は新しい鎖につながれてしまう。それに、鎖を切ると恨まれることが多い。自由を求めたつもりが逆効果になる恐れがある。
この方法を実践するのであれば、最善の注意が必要となる。
おススメなのは、2つ目の「鎖を長くすること」。
鎖が長くなれば、行動範囲が広がる。自由に近づいていく。
鎖を長くするには
鎖につながれた犬をイメージしてみて欲しい。
鎖を短くしたくなる犬はどんな犬だろうか?
気性が激しくて人を襲ってしまう。あるいは、目を離した隙に何か悪さをしてしまう。そんな犬ではないだろうか?
つまり、「信頼のおけない犬」は鎖が短くなりやすい。
逆に考えると、「信頼のおける犬」は鎖が長くなりやすい。鎖すら不要になるかもしれない。
人間も同じようなもの。
異性間で束縛の強い人がいる。それは相手に対して「信用がおけないから」。放し飼いにするとどこかへ行ってしまう不安があるから。そのため、つい束縛してしまう。
逆に、信用されれば、鎖は長くなるし、場合によっては鎖を外してもらえる。
信頼を得ることが自由への近道
つまり、「束縛するもの」の信頼を得ることが自由への近道。
例えば、会社に勤めている場合、信頼のおける人は上司からいちいち監視されないし、指示もされない。自由に行動できる。
現時点で不自由を感じている場合、周りの人から信頼されていない可能性がある。
場合によっては、バカにされていたり、下に見られている可能性がある。
まずは、周りからの信頼を得るべし
まずは、周りからの信頼を得ることをおススメする。
だが、信頼を得ることは簡単ではない。
相手の期待値を常に上回らなくてはならない。
相手の期待値を下回ってしまうと、信頼されるのは難しい。
なかなかハードルが高い。
相手を信頼することも重要
不思議なことに、「束縛するもの」に寄り添うほど自由が得られ、「束縛するもの」から離れようとすると自由が奪われてしまう。
散歩中の犬にも同じようなことが起こる。
飼い主から離れすぎると、鎖を引っ張られ、首が締まってしまう。
逆に、飼い主に寄り添っていると、鎖に引っ張られることはない。鎖の範囲内で自由に動き回ることができる。
このように考えると、「束縛するもの」と「自分」の両者が信頼し合うことも重要であるともいえる。
束縛力が強すぎる相手に対しては
しかし、世の中には色んな人がいる。色んな組織がある。
束縛力が強すぎる相手がいる。
これらの相手に対し、鎖を切ろうとすると命の危険性がある。
鎖を長くしようとしても、おそらく、相手は長くしてくれない。
この場合は、自分自身が圧倒的な存在になって相手にあきらめさせるしかない。
鎖をつけられるのは、自分が「犬」だと思われているから。
もし、「ライオン」だと思われれば、相手も鎖をつけようとは思わない。むしろ、手に負えずに手放すことになる。
自由に向かって自分を磨き続けるべし
つまり、自由を手に入れられるかどうかは自分次第ということ。
信頼を得るにしても、圧倒的な存在になるにしても、自分を磨き続ける必要がある。
自由を求めるほど、自分の首が締まっていくともいえる。
自由と不自由は表裏一体。
不自由を受け入れた人だけが、自由を手に入れることができる。
まとめ
自由を手に入れたければ、
- 「自分の求める自由」を明確にすること
- その自由に向かって自分を磨き続けること
この2つを実践することをおススメする。